宮松影水の誕生

 昭和22年関三郎が心臓麻痺で 61歳の若さで急死をしてしまいます。  関三郎の死後、職人たちは去り、幹太 郎は「影水」と駒師名を変え、「山華石」 などの彫り駒を作りますが、戦後の混乱 の中思うようには売れませんでした。
 父の知り合いを尋ね、奨励会の対局駒 や、近代将棋の池袋道場の道場駒として 使ってはもらえましたが、宮松一家を養 うには程遠いものであったようです。
 駒造りの基礎が出来ていなかった幹太 郎は、職人を呼び戻し、職人に駒を作ら せながら駒造りを彼らから教わります。 同時に国会図書館で資料を探し、新しい 書体や、駒字、駒形の研究に没頭します。 努力の甲斐があって、昭和30年にな る頃には、先生であった職人たちよりも 上手に駒を作れるまでになっていました。  後に、「美水」の駒師名を持つ富美さん と結婚をし、順調に駒を作るようになり ましたが生地にうるさかった幹太郎は気 に入った生地が入らないと駒を造らず、 箱や駒台を作っていたようです。

峯書宮松影水 美水夫婦揃い盛上駒A
峯書宮松影水 美水夫婦揃い盛上駒B