宮松影水の生い立ち

 宮松影水は、宮松関三郎、幹太郎親子 の駒師名です。
 宮松関三郎は、愛知県豊明市に生まれ、 実家は宮大工で、彼はその跡を継ぐべく 東京に修行へ出ましたが、将棋が強く将 棋大成会のプロ棋士となります。文章を 書く才能があり、また話をすることが上 手で、当時の人気将棋指しのひとりとな り七段(贈八段)まで上りました。
 豊島、奥野の駒界の両巨頭が昭和十五 年に相次いで亡くなり、将棋界を引退し た関三郎は駒造りをする決心をし、昭和 18年に豊島の遺族から字母紙と生地を 買い求めます。将棋指しあがりの関三郎 には駒を作ることが大変で、何人かの職 人を使って駒を造っていたようです。当 時の駒には駒師名が「宮松」となってい ます。俗に「初期宮松」と呼ばれている のがその駒です。戦争が終わり海軍の予 科練に行っていた幹太郎が家に帰り、中 央大学に通いながら駒造りを手伝います。  しかし、昭和22年関三郎が心臓麻痺で 61歳の若さで急死をしてしまいます。  関三郎の死後、職人たちは去り、幹太 郎は「影水」と駒師名を変え、「山華石」 などの彫り駒を作りますが、戦後の混乱 の中思うようには売れませんでした。
 父の知り合いを尋ね、奨励会の対局駒 や、近代将棋の池袋道場の道場駒として 使ってはもらえましたが、宮松一家を養 うには程遠いものであったようです。
 駒造りの基礎が出来ていなかった幹太 郎は、職人を呼び戻し、職人に駒を作ら せながら駒造りを彼らから教わります。 同時に国会図書館で資料を探し、新しい 書体や、駒字、駒形の研究に没頭します。 努力の甲斐があって、昭和30年にな る頃には、先生であった職人たちよりも 上手に駒を作れるまでになっていました。 後に、「美水」の駒師名を持つ富美さん と結婚をし、順調に駒を作るようになり ましたが生地にうるさかった幹太郎は気 に入った生地が入らないと駒を造らず、 箱や駒台を作っていたようです。